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えー、ありがたいことに読者さまからお題をいただきました。「わたびきさんなりの恋愛を語ってください!」恋愛カーストの最下層に蠢く私が恋を語り、それを読む。……へぇ、物好きもいるものだな、と真剣に思いました。最初に令和奇談のようなものになりますよ、とだけ伝えておきます。

恋というものは、遠い昔の万葉集を紐解くと、そもそもの恋という漢字ではなく「乞い」だったりしたそうです。はっきり言って、そっちの方が分かりやすくね? いくら乞い慕えども手に入らないものであったり、いくら繋がっていようとも乞い慕う気持ちは何も変わらず、手から溢れていく。

ついでに万葉集や平安時代の和歌を読んでいると、言っていることは我々の世代と大差なく、差があるとすれば、LINEやメッセージが既読のままで返ってこねーとか、電話がうんともすんとも鳴らないので、スマホがただのゲーム専用文鎮と化していて切ないとか、そういう。

これは、たとえば数学や科学と違って、こと恋愛に関しては一子相伝の学問ではない、ということに尽きるというのは、昔から考えております。恋愛学というものは多分ないし、たまにネット上に現る恋愛学者さんのいうことを聞いて、彼氏彼女が出来たという話も聞かず。ママンやパパン、あるいは先生が手取り足取り異性の気持ちや方程式を教えてくれるものではないでしょう? せいぜい「こんな○○はママが許しません、ロクな目に遭わない」というような感じ。とりあえずママが私の選んだ男と恋愛してんじゃねーんだし、ロクな目に遭わないなら遭わないで次に活かすんで、親はすっこんでろ。……と、誰であれ親御さんの介入を良しとしない私が通ります。だって理に適っていないもの。親だって兄弟だって、結局は他人ですよ。

心配はね、あってもいいと思う。宗教とかハンコとかツボとか、いろいろあるから。

さて……。私の若い頃の恋愛事情について語りたいのですが、図らずも語れない。好きな人はいたんですよ。結局手も繋がなかったし、相手が私のことを好きではなかったから、恋愛というよりただの乞い。もっと言うと恋に焦がれて真夏の火に飛び込んだ蜻蛉のようなもの。言うことは綺麗でも炭ですよ、炭素に過ぎない。

料理でもなんでも、焦がして学ぶことはあり、焦がして初めてわかることがある。私は恋愛カーストの最底辺だと。モテからは背を向け、都合のいい女を辞めて、軽い男を紹介してくれる軽い女友達を切って回り、本当の一人ぼっちになって初めて、初めてわかる、見えるものがあるのだと気付くのです。

「ひとりでも、良くね……?」

ひとりでも良いんだと気づいたら、彼氏が欲しいとか言っていた頃に比べて、気が楽。ただし、何かを除いて。

私は随分と長い間、居場所を探していたような気がするのです。彼氏が欲しいというより、居場所のない生活を送っていたに過ぎないのだと気づいた瞬間に、恋愛はなんぞやというのは私の中でピキーンと音を立てて組み上がっていったように思えるのです。

アイドルが歌う曲から、恋愛小説、純文学に至るまで、皆が欲するものは確固たる居場所。貴方のそばにいてもいいのか、とか、隣で眠りたいだとか、謳われるものは大概同じ。

居場所。

たとえば、仕事に居場所を見出している人の中には、恋はすれども結婚はしない人はいるし、恋など面倒だとばかりにすっ飛ばす人もいるのです。

無償の愛など存在しない論者の私でも、居場所となれば話は別で、昔からなにかと人に恵まれることなく、あるいは弄られたりもした私にとって、居場所というものは乞うても乞うても手に入らない、仕方のないもの。

自分にとって、愛は居場所だった。

赤ん坊が母の腕に抱かれているのも、両者にとって確固たる居場所なのであり、配偶者に手を握られながら病院のベッドで横たわる老人は、それはそれで手のひらに居場所がある。

愛がないのだと叫ぶわりに、私には居場所がないのだと気付いたのは結構時間がかかった。占いの本をとりあえず投げ捨てて、ふと後ろを振り返ってみましょうか。

あなたには居場所がありますか?あるのなら少しだけ大事にするといいです、見当たらない人は、少しだけ周りを見たらいいです。

たぶん、あります。

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